プロ野球「最後のPL戦士」へ。ドラフト候補・中川圭太の溢れる思い (2ページ目)

  • 高橋博之●文 text by Takahashi Hiroyuki
  • 大友良行●写真 photo by Ohtomo Yoshiyuki

 その日本代表には、淺間大基(日本ハム)、立田将太(日本ハム)、田嶋大樹(オリックス)など、のちにプロ入りする選手もいた。

「みんなレベルが高かったですが、なかでも淺間や立田、田嶋は別格でしたね。こういう選手がプロに行くんだろうって思っていました。世代トップの野球を知ることで、甲子園に出たいと強く思うようになりました」

 中川が進学先に選んだのはPL学園だった。当時のPL学園は、中川が入学する2012年の3年前、2009年には春夏連続出場を果たすなど力を見せていた。しかし、当時すでに大阪の覇権は、大阪桐蔭や履正社へと移りつつあった。

 そんな状況のなかで、中川は泉佐野リトルシニアの田中和人監督にPL学園を勧められた。田中監督は松井稼頭央(西武)と同級生で、高校3年のときは4番を打っていた人物だ。

「田中監督から『もう一度、PL復活のために行ってくれないか。中川ならできる』と言われました。父も子どもの頃に(桑田真澄、清原和博の)KKを見ていた世代なので、大阪の高校ならPLだろうという感じで......。それで実際に試合を観に行くと、PL学園の選手たちの動きが格好よかった。PLから甲子園を目指そうと決めました」

 だが、なかなか歯車がかみ合わなかった。1年の秋は大阪桐蔭に4-13とコールド負け。その後、部員の不祥事が発覚する。翌年春の大会を辞退し、夏も出場停止となってしまった。

「さすがに最初は気が滅入りました。甲子園に行くためにPLに入ったのに、何をやっているのだろうって......」

 AA日本でともにプレーした仲間たちは、次々に結果を出していった。2年春には立田が大和広陵(奈良)で、夏には淺間が横浜高の一員として甲子園の土を踏んだ。一方で中川はどんなに練習しても試合ができない。ただ、そんな厳しい状況のなかでも気持ちが切れることは一度もなかった。

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