【連載】荒木大輔がいた甲子園。証言で明かす1980年の高校野球 (3ページ目)

  • 元永知宏●取材・文 text by Motonaga Tomohiro
  • photo by Okazawa Katsuro/AFLO

 当時、まだ中学生だった私には、甲子園球児たちは荒々しく凶暴にすら見えた。あからさまなラフプレーも頻繁に見られたし、デッドボールを当てられた打者が投手をにらみつける場面も少なくなかった。額に青々とした剃りこみを入れ、ピンピンに眉毛を細く尖らせた選手もたくさんいた。

 中学生には「荒くれ者」に見えた球児が集まる甲子園で、いかつい強打者たちをストレートとカーブだけで打ち取っていく荒木の姿は異質だった。相手の闘志を軽く受け流す1年生投手には冷静さが備わっていた。高校入学後の5月に16歳になったばかりの少年は、2回戦以降も初戦と変わらない落ち着いたピッチングを見せた。

 大会前、優勝候補に名が挙がらなかった早稲田実業は、荒木に引っ張られるように、一戦ごとに力をつけていった。2回戦は東宇治に9-1、3回戦は札幌商業(南北海道)に2-0、準々決勝は興南(沖縄)に3-0で勝利。準決勝では瀬田工業(滋賀)を8-0で撃破し、決勝まで駒を進めた。

 荒木は準決勝を終えた時点で44回3分の1を投げ、失点ゼロ。あと1イニングを無失点に抑えれば、連続無失点の大会記録を更新することになっていた。しかし、決勝で待ち構えていた、愛甲猛率いる横浜打線に初回から捕まり、3イニングで5点を奪われて敗れた。

 1年生の夏の甲子園で準優勝したのだから、2年生、3年生になって実力がつけば日本一になれるだろう。そう思ったファンもいたかもしれない。だが、勝負の世界はそんなに甘いものではない。2年の春は初戦で敗退し、夏は3回戦で敗れた。3年春のセンバツと最後の夏も準々決勝で姿を消し、結局は1年夏の甲子園が荒木の最高成績となった。

 どんなに弱い高校の野球部員でも、甲子園に出場できる可能性は5回あるが、実際に5大会連続で甲子園まで勝ち上がるチームはほとんどない。しかし、荒木は5度とも甲子園に出場し、通算12勝5敗という成績を残した(17試合、141イニングを投げ、防御率1.72)。日本一にはなれなかったが、1980年の夏から1982年の夏まで、高校野球は荒木を中心に回っていた。「荒木大輔の時代」は確かにあったのだ。

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