【連載】荒木大輔がいた甲子園。証言で明かす1980年の高校野球 (2ページ目)

  • 元永知宏●取材・文 text by Motonaga Tomohiro
  • photo by Okazawa Katsuro/AFLO

 1980年に62回を数えた夏の全国選手権では、1年生が活躍することは決して珍しいことではなかった。古くは、早稲田実業の王貞治が1956年の夏に甲子園出場を果たし、1977年の第59回大会では「バンビ」と呼ばれた東邦(愛知)の坂本佳一が人気を集めた。だが、荒木の残したインパクトは、先人たちのそれとは別種のものだった。

 荒木が高校に入学する前の1979年、プロ野球と甲子園では歴史的な出来事が立て続けに起こっている。

 1978年のドラフト会議直前に、「空白の一日」で読売ジャイアンツと入団契約を交わした江川卓がプロ野球デビューを果たした年であり、その年のシーズンには、江川の身代わりとなって阪神タイガースに移籍した小林繁が22勝を挙げ、最多勝のタイトルと沢村賞を受賞した。

 高校野球では、尾藤公(びとう・ただし)監督に率いられた箕島(みのしま・和歌山)の選手たちが躍動。センバツで日本一に輝くと、夏の全国選手権では3回戦で星稜(石川)との延長18回の激闘を制し、そのまま頂点まで登りつめて春夏連覇を達成した。これは、史上3校目(当時)の快挙だった。

 そして、1979年の野球シーズンを締めくくったのが、広島東洋カープと近鉄バファローズによる日本シリーズだ。1975年に球団創設以来初となるリーグ優勝を飾ったカープはこの年、2度目のセ・リーグ制覇。ブルペンにはリリーフエースとして江夏豊が控えていた。3勝3敗で迎えた第7戦、ゲームセットの瞬間にマウンドで両手を挙げて飛び上がったのは、その江夏だった。この試合の9回裏の攻防は「江夏の21球」としてプロ野球の伝説となり、いまも語り継がれている。

 その翌年、野球界に降臨したのが「甲子園のアイドル」だった。

 40年近く前の高校野球は、今よりもはるかに泥だらけで男臭かった。球児たちはストレートに喜怒哀楽を表現していて、試合後にグラウンドで泣き崩れる選手はいくらでもいた。当時も大会関係者によって派手なガッツポーズはいさめられたが、それでも勝利した高校の選手たちは拳を突き上げて喜びを爆発させたものだ。

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