センバツ初出場の府立・乙訓高校の
選手が「強豪校にビビらない」暗示

  • 石田雄太●文 text by Ishida Yuta
  • photo by Kyodo News

「僕が中学3年のとき、北嵯峨の監督だった卯瀧逸夫(うだき・いつお/北嵯峨、鳥羽、立命館宇治で監督を務め、9度の甲子園出場を果たした名将)先生が鳥羽に転勤してこられて、僕も鳥羽へ行くことにしたんです。卯瀧先生からは常に『勝負事は勝つんやぞ』と言われ続けて、徹底的に基本を叩き込まれました。グラウンドも狭かったし、ボール回しを3時間とか、同じメニューばっかりをやってましたね」

 1990年代の京都で、平安(現・龍谷大平安)、京都成章、京都西(現・京都外大西)、東山といった私立の甲子園常連校に楔(くさび)を打った公立が、卯瀧監督のいた北嵯峨だった。そして、鳥羽に移ってわずか2年で、卯瀧監督は春夏連続の甲子園出場を実現させたのだ。

 もちろん、そこまでの道のりにもドラマがあった。卯瀧監督が就任した1年目の夏、鳥羽はいきなり京都大会の決勝まで進んだのだが、京都成章(松坂大輔擁する横浜に決勝でノーヒットノーランを喫するも甲子園で準優勝)に0-7で大敗。秋の大会では準決勝で峰山に、3位決定戦で平安にも敗れて近畿大会出場を逃し、いずれもあと一歩のところで甲子園を逃してしまった。そして2年目の夏は、大谷によもやの初戦敗退。選手として甲子園への距離を思い知らされた市川監督は、当時のことをこう振り返る。

「僕は1年生のときからゲームに出してもらって、甲子園まであと一歩というところで悔しい思いをしました。甲子園にはメチャクチャ行きたかったし、そのつもりで鳥羽に入ったんですけど、でも、じつは高校に入ってすぐ、いきなりビックリさせられたのは同じ高校の同級生だったんですよ。

 僕は中学で軟式をやっていて、ウチの中学の野球部はまあまあ強かったんですけど、中学生で硬式をやってるヤツらがいるなんて、そのときまで知らなかった(笑)。で、高校入ったら、『コイツら、誰なんや』ってのがいっぱいいるじゃないですか。近澤(昌志、のちに近鉄)は硬式で全国優勝してるぞって聞かされて......こりゃ、入る高校を間違えたと思いました。だから甲子園とか京都の強豪校とかいうよりも前に、自分のところで勝ち抜かなアカンという思いのほうが大きかったんです」

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