廃部寸前の無名県立校がセンバツ出場。富島(宮崎)に何が起きたのか (2ページ目)

  • 加来慶祐●文 text by Kaku Keisuke
  • photo by Kyodo News

「3年で九州大会、4年で甲子園に行きます」

 富島着任の歓迎会でこう宣言した浜田監督に対して、当初、周りの反応は冷ややかなものだった。部員数の減少により、廃部寸前だった野球部である。いくら名将が来たとはいえ、それまで初戦敗退が当たり前のチームが急に変わるとは誰も想像していなかった。

 それでも、実力のある公立校や実績のある監督に多大なリスペクトを寄せる県民性もあって、浜田の着任と同時に地域の有力選手が続々と富島に入学した。

 もともとこの地域はソフトボール出身者を中心に選手の質が高く、県内の強豪校に何人もの選手を送り込んでいる。それだけにこの地域の有力選手が集まった富島は、瞬く間に力をつけていった。

 浜田監督が就任してから1年半後には宮崎県の1年生大会で優勝。これが富島野球部にとって県レベルで獲得した初のタイトルだった。また、彼らが2年となった秋には県大会準優勝を果たし、創部以来初の九州大会に進出。翌春には宮崎の頂点に立って九州大会に連続出場するなど、就任わずか3年で一躍、県内の強豪校へとのし上がった。

 昨年の秋は宮崎大会で準優勝し、3度目の九州大会に進出。文徳(熊本)、長崎商を破り、準決勝では昨年夏に甲子園を経験している石田旭昇を擁する東筑(福岡)にも勝利した。決勝は創成館(長崎)に敗れたが、初回に奪われた5点のビハインドを2回までに1点差に詰め寄るなど、持ち味は存分に発揮。文句なしのセンバツ当確となった。

 センバツへの快進撃の始まりは、昨年秋の宮崎大会で2回戦(初戦)、3回戦と立て続けに劇的なゲームをものにしたことだった。いずれも2点を追う9回に同点とし、最終的に1点差で勝利するという試合展開だ。

 そのとき試合後の取材で浜田監督は「逆転の富島」という言葉を連呼した。わかりやすいフレーズが新聞の見出しに踊ることで、相手チームにはプレッシャーとなり、富島の選手たちにとってはリードされていても動じない精神的な強さにつながった。この浜田監督による"マスコミ操作"も功を奏した。

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