ドラフト1位の残像。一軍登板ゼロの辻内崇伸が、クビを覚悟したとき (4ページ目)

  • 田崎健太●文 text by Tazaki Kenta
  • スポルティーバ●写真 photo by Sportiva

■戦力外通告を受けてホッとした

―― プロでは8年間で一軍公式戦での登板はゼロ。クビを覚悟したのはいつですか?

「2013年は、試合で投げたのがシーズンの最後の方だったんです。それで128~129(キロ)しか出なくて。これが限界なんやと思いました。それまではしつこくプロ野球選手でいたいと思っていました。でも128とか129というのは自分のなかでも衝撃で、『これはもうプロ野球選手ちゃうな』というのがありました。もうしょうがないなと」

―― 戦力外通告を受けたときの心境は。

「めっちゃほっとしましたね。『野球、終わった』みたいな感じ。やっとこの苦しさから解放されるんや、ヒジや肩が痛くない生活ができるんやと。明日から投げなくていいという解放感がすごかった」

―― 戦力外通告を受けた後、トライアウトを受験しようとは思わなかったのでしょうか?

「(戦力外通告を受けることを察知して)嫁はまだプロとしてやってほしい、トライアウトを受けたらどうかと言っていたんです。でも僕は、もう痛いのが嫌だった。それで記者の方にトライアウトは受けないという記事を載せてもらったんです。これで嫁は(引退を)受け入れざるを得ないだろうと思って」

―― もう一回、人生をやり直すことができるとしたら、どこに戻りたいですか?

「違う人生を歩みたいという気持ちはあります。小学校とかに戻るんやったら、野球はやらない。大阪桐蔭のあんなしんどい練習は二度とやりたくないですから。でも、あの練習でプロになれた。それは感謝しています。僕の人生で自分の思ったような速球を投げられたのは、3、4年ぐらい。それで野球人生を終えたことに後悔はしていないです」

■辻内崇伸(つじうち・たかのぶ)

大阪桐蔭高校3年時、夏の甲子園1回戦の春日部共栄戦で152キロをマーク。一気に注目を浴びる。2回戦の藤代戦では当時の大会タイ記録となる19奪三振を記録。同校をベスト4へ導く原動力に。05年の高校生ドラフト会議では読売ジャイアンツとオリックス・バファローズとの競合の末ジャイアンツが交渉権を獲得し、1巡目指名で入団。しかし、プロ入団後は度重なる故障に悩まされ、結局06年から引退する13年まで一軍公式戦出場はなかった。引退後、2014年より日本女子プロ野球機構(JWBL)のアストライアのコーチ、2016年はレイアのコーチを務める。2017年、埼玉アストライアのヘッドコーチに就任。
http://www.kanzen.jp/book/b317291.html

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