73歳と75歳の超ベテラン監督が語る「甲子園で指揮をとる幸せ」 (5ページ目)

  • 谷上史朗●文 text by Tanigami Shiro
  • photo by Kyodo News

 特に力をつけた3年時の夏の投球は抜群だった。甲子園初戦から順に、広陵(広島)を2対1、高知商を1対0、東北(宮城)を2対1(延長10回)と抑え込み、栃木県勢初の決勝進出を決めた。西条(愛媛)との決勝戦は2対2のまま延長14回まで進15回に6失点と力尽きたが、堂々の準優勝。

 早稲田大に進学後は肩を痛めて打者に専し、4年時は4番・ファーストとして活躍。さらに社会人野球の丸井では故・大杉勝男(元ヤクルトほか)と中軸を組んだが、入社から1年も経たずにチームは解散。ここで野球と別れ、栃木へ戻り、実家の割烹料理店を継いだ。

 それから20数年が過ぎた1986年。日本文理の前身である新潟文理から知人を通じ、監督依頼の話がきた。開校3年目、「野球部に野球の基礎を教えてほしい」と頼まれ、「2、3年のつもりで......」と店は夫人に任せ、単身で新潟に出向いた。

 いざ行ってみると、事前に聞いていた話とは何もかもが違っており、途方に暮れそうになったが、13人の子どもたちとグラウンドの石拾いからスタート。45歳での現場復帰だった。

 本格的に野球から長く離れていた分、野球への思い、そこに子どもたちへの思いも加わり、教えたいことが次々と噴き出てきた。そして大井がなにより力を入れたのがバッティングだった。

 当時、センバツ未勝利など野球後進県と言われていた新潟の野球を変えたいと。そのためにはバッティングだと確信していた。甲子園では池田(徳島)、PL学園(大阪)の猛打が続いていた時代だ。

「5点以上取って勝つ」

 これが大井の目指す野球のスローガンになった。

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