71歳の智弁和歌山・高嶋監督は
通算63勝でも「結果を出すしかない」

  • 谷上史朗●文 text by Tanigami Shiro
  • photo by Kyodo News

 日体大に進んだ高嶋は1年春からリーグ戦出場を果たすが、上級生からの"当たり"もきつかった。それでも、心が折れることも、逃げることもなかった。

「上級生が『正座せえ!』と2時間ぐらい座らされるなんていうのはしょちゅうやったけど、そんなのは全然平気。正座しながら、『お前ら、こんなんしかできへんのか。野球で勝負せえよ。お前らなんかには絶対負けへんからな』と思っていました」

 野球に懸ける思いが、ほかの部員とは違っていた。オフになると1年分の生活費を稼ぐため、深夜の測量など体を酷使するアルバイトに励み、4年を乗り切った。

 大学卒業後、晴れて教員となり1970年春に赴任したのが智弁学園(奈良)だった。2年前に甲子園出場を果たすと部員が急増し、若手のコーチを探していたのだ。

 当初は3年契約で、あとは「長崎に戻って......」と考えていた。しかしそうはならず、3年目に監督に就任。すると高代延博(現・阪神コーチ)がキャプテンを務めたチームで、春の近畿大会に出場。幸先はよかったが、夏は初戦(2回戦)で敗れ、その後も1回戦、2回戦敗退を振り返した。

 その間、高嶋は理事長の藤田照清に3度も辞表を提出。だが、その都度「こんなもん書く暇があったら練習せんか。勝ったらええんや!」と破り捨てられた。今となっては親心を感じさせるエピソードにも聞こえるが、高嶋は「あの人の頭には優勝しかなかったんよ」と言い、相当なプレッシャーがあったと振り返

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