センバツで神戸国際大付が目指す破壊的「プロレス野球」って何だ!? (3ページ目)

  • 谷上史朗●文・写真 text&photo by Tanigami Shiro

 プロレスにのめり込んでいったが、野球の方でも大学2年秋からベンチ入りし、3年、4年時は4季連続リーグ優勝を飾り、神宮大会でも3年時が準優勝、副主将となった4年時は神宮大会で優勝を飾った。

 確固たる強さを想像させるが、「僕の力じゃなかったから」とこちらの話は控えめに終始した。ちなみに、このときのエースはのちに日本ハムで大活躍する西崎幸広だった。

 大学卒業後もプロレスとの付き合いは続いていくが、やがて兵庫に戻ると1989年から母校でコーチ、翌年8月には25歳で監督についた。グラウンドづくりと生徒指導からのスタートで、まさに孤軍奮闘の毎日だったが、「『やったるで!』という気持ちはガンガンありました」と振り返る。

 プロレス界では革命戦士と言われた"長州人気"も手伝って、80年代後半からブームが続いていた。

「練習のときはプロレスのテーマ曲をガンガンかけながらやっていました」

 1992年に現校名となり、野球部はじわじわと力をつけ始める。この時期、青木はタクシーに乗ると「今年の高校野球はどこが強いんですか」と運転手に話を向けていた。5番手ぐらいに「神戸国際大付」が出てくることを期待していたがそうはいかず、最後は「垂水にある神戸国際大付という学校が最近強くなったみたいですよ」と自らつぶやくように車を降りていた。とにかく新しい校名と野球に力を入れているという評判を広めたかったのだ。

 そんな努力が実り、2001年センバツで悲願の甲子園初出場を果たすと、2005年の春はベスト4に進出。監督になってからも時間を見つけてはプロレス会場に足を運び、CS放送でも観戦を続けている。プロレスには高校野球に通じる魅力があるのだろうか。

「続けて見ているとね、前に見たときはここで終わっていたのに、今回は(技を)返しよったと。体が大きくなったり、強くなったり、そういうのも見てくるようになります。会場で一生懸命Tシャツを売っていた子とか、通路でパイプ椅子を並べて、腕立てをガンガンやっていた子が上で試合するようになったり。そうした成長過程を見るのが好きというのはあるね」

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