謹慎処分で変わった指導法。履正社と岡田監督「激動の30年史」 (2ページ目)

  • 谷上史朗●文 text by Tanigami Shiro
  • 大友良行●写真 photo by Ohtomo Yoshiyuki

 ただ2度目の甲子園までは、それから9年を費やした。この時期、岡田のなかでそれまでの指導法に行き詰まりを感じるようになっていた。厳しく、激しく追い込むことで選手の力を引き出していたが、そのやり方に疑問を抱き始める。

「昔はどこもそういう時代でしたけど、選手にしてみれば試合で相手に勝つか、指導に勝つか。僕も最初はそういう追い込み方をしていました。じつは、大学のときに『やらされる野球じゃダメ。限界がある』と気づいたんです。でも、いざ監督になって、この戦力で勝つには......と考えたら、僕の高校時代と同じことをやっていましたね」

 2002年、「行き過ぎた指導」により謹慎処分を受け、岡田は方向転換を決断した。

「謹慎になって『これは違う方法を考えなあかん』と。そこから選手たちがグラウンド内でもグラウンド外でも自分で考えて動けるように、今度はそこを"徹底"するようになりました」

 たとえば、履正社の練習は普段から走者をつけて行なうケース練習が非常に多い。なかでも一、三塁のケース練習に最も多く時間を割くのだが、これは攻守ともに考えるパターンが多く、予測、状況判断の力が必要になってくるからだ。また、紅白戦では打者自身がサインを出すのだが、これも頭を鍛えるために行なう。走攻守に頭脳を加えた"4拍子"のバランスのよさが履正社の最大の特長で、ここ15年で岡田が最も強調していた部分だ。

 こうして指導方針が転換されていくなか、2006年春に2度目の甲子園出場を果たすと、そこから10年間でじつに7度の甲子園を実現。いまや大阪桐蔭と"大阪2強"を形成するまでになった。

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