「母」は元プロ野球選手。履正社を強豪校に育てた岡田監督の意外な過去 (4ページ目)

  • 谷上史朗●文 text by Tanigami Shiro
  • 大友良行●写真 photo by Ohtomo Yoshiyuki

 その頃の東洋大姫路の野球部はとにかく厳しかった。監督の梅谷とコーチの田中治のふたりがとにかく強烈だった。普通、ひとりが怒ればもうひとりはフォローに回ることが多いが、「あのふたりは、ひとりが10発いけば、もうひとりは20発いくというタイプ」と岡田は苦笑いで振り返る。

 加えて、厳しい上下関係もあり、入学間もない5月に下宿先から「辞めて帰りたい」と母に電話をした。しかし、「帰ってきたら家に入れへんで! やると決めたら最後までやらな!」とあっさり却下。何事にも中途半端を許さない母だった。

 その後も何度か「辞めたい」と思ったが、「今なら対外試合禁止だらけ」という上下関係にも、「今ならひとりも残らない」という猛練習にもひたすら耐えた。

 岡田が1年の夏に東洋大姫路は、"江夏二世"の異名をとった剛腕・松本正志を擁して全国制覇。当時の練習について聞くと、「とにかくバント、守備、走塁......どれも妥協することなく徹底して繰り返していました」と岡田は言う。当時の東洋大姫路の試合巧者ぶりは、そうした途方もない練習量に裏打ちされたものだったのだろう。

 岡田自身は、全国制覇直後の新チームからベンチ入りを果たすことになる。「バントは結構できた」と振り返る技術面に加え、いくら絞られても音を上げない根性が指導者たちの目にとまった。ガッツむき出しの実戦派――極めて東洋大姫路っぽい選手として成長していった岡田は、2年秋からチームのキャプテンに任命された。しかし、この職がまたつらかった。

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