「母」は元プロ野球選手。履正社を
強豪校に育てた岡田監督の意外な過去

  • 谷上史朗●文 text by Tanigami Shiro
  • 大友良行●写真 photo by Ohtomo Yoshiyuki

 すると、ここからの行動がじつに大胆。岡田が進学先として希望したのは、前年(1975年)のセンバツで準優勝の強豪校・東海大相模だった。理由は「とにかく甲子園に近いと思ったから」ということだった。母に頼み、原貢監督に手紙を書いた。

 大阪の中学生のバレー部キャプテンが書いた手紙を原監督がどう読んだかはわからないが、しばらくして貢氏が息子の辰徳氏の進学とともに東海大学へ移ることが判明。そこで「高校野球は監督が代わったらアカン......」と方向転換し、今度は地元・関西の高校に目を向けた。

 ただ当時の大阪は"私学7強"と言われており、どこが甲子園に出るかわからない時代。その結果、候補として考えたのが兵庫にある東洋大姫路だった。理由はやはり、甲子園への近さだった。

「僕が東洋大姫路の15期生になるんですけど、入学前の14年で7回も甲子園に行っていた。なら、3年の間に1回は行けるやろうと思ったんです。ホントに安易な考えで、高校野球をなめていました(笑)」

 親戚のなかに東洋大姫路の監督である梅谷馨(うめたに・かおる)氏を知る者がおり、秋に練習を見学させてもらった。それを見て岡田は迷うことなく受験を決めると、一般入試で合格し、無事入学となった。

 東洋大姫路の野球部は寮を持たず、当時は県外生も皆無。そこへ大阪から下宿してまでやってきた岡田に周りは「すごいヤツが来た」と関心が高まった。ところが、バレー部出身と聞くと、「なんや......」となった。

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