「母」は元プロ野球選手。履正社を強豪校に育てた岡田監督の意外な過去

  • 谷上史朗●文 text by Tanigami Shiro
  • 大友良行●写真 photo by Ohtomo Yoshiyuki

履正社・岡田龍生物語(前編)

 近年の大阪で大阪桐蔭とともに2強を形成してきた履正社の本格化――。そんな印象を抱かせるこの1年の強さだった。

春...大阪大会、近畿大会優勝

夏...大阪大会優勝、甲子園ベスト16

秋...国体優勝、大阪大会準優勝、近畿大会優勝、神宮大会優勝

今年秋に行なわれた神宮大会で全国制覇を達成した履正社・岡田龍生監督今年秋に行なわれた神宮大会で全国制覇を達成した履正社・岡田龍生監督 戦力の充実があったことはもちろん、これだけ結果が続いた戦いを振り返るとき、岡田龍生監督の思いはしばしば天へと向いた。「オカンが見てくれとったんかな」。最愛の母・静子さんが亡くなったのは今年5月、春の大阪大会を戦っている最中だった。

「ずっと入院はしていたんですけど5月にいよいよ厳しいとなり......亡くなったのは汎愛との準決勝の2日前の5月12日。空いている場所がなく、お通夜が日曜日になったので決勝(大阪桐蔭戦)のあとそのまま会場へ向かって家族だけでやりました」

 一部スタッフ以外には一切知らせることなく、秘め続けていた思いを口にしたのは7月だった。夏の大会を前にした激励会で父兄、選手の前でこう伝えた。

「この夏は個人的な思いもあり、どうしても甲子園に行きたい。母親にも『夏、もう1回頑張るから見にきてくれ』と伝えていますから」

 岡田が野球少年だった頃の風景を思い浮かべると、大の野球好きだった祖父と、キャッチボールの相手をよくしてくれた母が登場する。

「私も昔はプロでやってたんよ」

 子どもの頃、そう母から聞かされたときはまったくピンとこなかった。女子と野球が結びつかない時代。ましてプロとなればなおのことだ。ただ、子どもながらに「たしかにキャッチボールはうまいな」と感じていたという。事実、母は1950年から約2年間活動した"女子プロ野球"の選手だった。

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