あの「離島の名将」が縁もゆかりもない大分で誓う、甲子園への再挑戦 (3ページ目)

  • 加来慶祐●文・写真 text&photo by Kaku Keisuke

── まったく知らない土地、学校での指導に不安はなかったのですか?

「石垣島から出たことがなかったからね。でも、それは二の次、三の次。とにかく野球ができるならどこでもよかった。そう、そこに野球があったからですよ。本当にそれだけのことなんだよ」

 やはり伊志嶺監督は高校野球の指導者であり続けたのだろう。八重山商工での監督勇退も決して本意ではなかっただけに、「不完全燃焼では終われない」という思いは隠しようがなかった。

「専用グラウンドだし、外野の奥にサブグラウンドもあるし、隣接しているラグビー場だったグラウンドも使用できるし、恵まれている。さらに学校も『照明をつけてあげる』と言ってくれているので、環境はさらによくなる。ただ、環境はよくても備品がない。ボールが600球ぐらいしかないんだから」

 伊志嶺監督は就任するや、1キロと1.2キロのバットを合計17本注文した。石垣島でも使用していたという練習用の重量バットだ。さらに、石垣島に置いてきた外野ノックマシンも空輸で取り寄せ、さらなる設備の充実を図っている。

 指導初日は16時から全体練習が始まった。まず伊志嶺監督は選手たちを集め、「誰のためにやるんだ? 自分のためだろ!」と気合いを注入。その後、ウォーミングアップもそこそこに、マシン打撃に入った。

「子どもたちは学校からグラウンドまで2キロほどの道のりを自転車で通っている。アップダウンも結構あるから、ここに着く頃には体が温まっている。それにこの時期は夕方5時で暗くなっちゃう。向こう(石垣島)では冬でも6時ぐらいまで照明なしで練習しているわけだから、のんびりしていられないよ」

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