あの「離島の名将」が縁もゆかりもない
大分で誓う、甲子園への再挑戦

  • 加来慶祐●文・写真 text&photo by Kaku Keisuke

 また、高校野球を離れている間は小・中学生の指導を行ない、2001年には八島マリンズを率いて全日本学童軟式で優勝し、中学野球の八重山ポニーズの監督としても2003年に世界ベスト4入りを果たすなど、抜群の実績を残した。ちなみに、この両チームとも伊志嶺監督が「離島から甲子園に出るためには一貫指導が必要だ」という理念のもとで起ち上げたチームだった。

 八重山商工では1日14時間にもおよぶ猛練習で選手たちを鍛え上げたが、厳しすぎる指導によって部員が2名まで激減したこともあった。それでも伊志嶺監督の情熱は冷めることがなく、練習のペースを落とすことはなかった。

 また、伊志嶺監督は「野球の指導を最優先に考えたいから」と、時間の融通がきく清掃業へと転職。私財を投げうって、さらに借金をしてまでバッティングマシンやネットを購入。まさしく身を削りながらチーム強化を推し進めていった。伊志嶺監督は言う。

「いたって普通の八重山商工の選手たちがいったいなぜ沖縄でも上位の選手になることができたのか。僕の熱以上に、やっぱり量をこなしたからですよ」

 そんな伊志嶺監督に目をつけたのが日本文理大付だった。そもそも両者に直接的な接点はなかったが、伊志嶺監督と付き合いがあった日本文理大の中村壽博監督が間に立ち、2016年秋の正式オファーへとつながった。

「即決です。考えなきゃいけないことはたくさんあったのに、本当に何も考えなかった。仕事やら身辺整理もまったくできていない状況でこっちに来たからね。新車(清掃車)を夏に購入したばかりで、支払いもまだ終わっていないのに(笑)」

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