運命の日。「小さな独立リーガー大学生投手」にドラフト指名はあるか (2ページ目)

  • 谷上史朗●文・写真 text&photo by Tanigami Shiro

 神戸市立有野北中時代は学校の軟式野球部で主に2番・ショートとして活躍。高校は県内の私学へ進み、神港学園でセンバツに出場した兄(雄大)のように甲子園を目指すつもりだった。ところが、受験に失敗。進路を再考するなかで興味をひかれたのが芦屋学園だった。

 芦屋学園は高級住宅街にある私立高(芦屋大学も芦屋学園が運営)。英語好きの山川には、「在学中に留学のチャンスがある」という点が大きな魅力だったという。

 ただ、当時の芦屋学園には硬式ではなく、軟式野球部しかなかった(山川の卒業後に硬式野球部が発足し、高野連に属さないチームとして話題になった)。となれば、甲子園を目指す道はない。そこでまず考えたのが、「学校に頼んで硬式野球部をつくってもらおう」ということだった。入学時の作文でもその思いを伝えたが、思い描いたように事は運ばなかった。

 それでも気を落とすことなく、すぐに気持ちを切り替えた山川が目指したのは、「軟式野球を極めよう」ということだった。

 1年の春、入学早々、打撃投手を務めたことがきっかけで投手を任されるようになった。肩はそれなりに強かったが、身長が低く、ピッチャーとして際立つものがなかった。「これじゃ面白くない」と下手投げにフォームを変えると、それなりの結果が出た。だが、バックで守る野手陣は、高校から野球を始めた者も多く、打ち取った打球がアウトにならないことも度々。そこで「三振を取らないと勝てない」と、1年の冬を前に再び上手投げに戻した。

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