「ヒグマの親分」に導かれた甲子園。クラーク国際が踏み出した一歩 (4ページ目)

  • 田尻賢誉●文 text by Tajiri Masataka
  • 大友良行●写真 photo by Ohtomo Yoshiyuki

 今春に初めて空知支部を突破して全道大会に出場。夏も空知支部を勝ち上がり、初めて北北海道大会に進出した。北北海道大会では初戦で遠軽にサヨナラ勝ち。準々決勝では前年代表の白樺学園と当たる予定だったが、白樺がまさかの敗戦。進学校の釧路湖陵との対戦となった。「白樺にやられるかなと思っていたところが、相手が湖陵。湖陵には負けられないと火がついた」とコールドで破ると、準決勝は「駒大岩見沢時代に痛いところでやられたお返し」と旭川実にサヨナラ勝ち。決勝では春の空知支部決勝でも破っている滝川西に完封勝ちして甲子園行きを決めた。

「『甲子園に行きなさい』という道が見えた。このチームが勝つなんて奇跡みたいなもんだね。ごほうびみたいなもんでしょう」

 そう言って笑う佐々木監督は、こうつけ加えた。

「運があるんだよ」

 駒大岩見沢では、「右も左もわからなかった」という初出場の1983年センバツで2勝してベスト8。同じ南北海道に駒大苫小牧が台頭し、甲子園を阻まれ続けていた07年に所属する南空知支部が北空知支部と統合。北北海道で戦うことになり、2年連続夏の甲子園出場。駒大岩見沢が廃校になると、すぐにクラーク記念国際に監督として請われた。そして、2年3カ月で甲子園だ。

 そんな強運を持つ"ヒグマの親分"も今年で60歳。年を重ね、変わったことがある。ひとつは、生徒たちに息抜きの時間を与えるようになったこと。留萌(るもい)の海へ連れて行き、カニ釣りをしたり、温泉に行ったり、ルスツ高原に連れて行ったり......。

4 / 6

厳選ピックアップ

キーワード

このページのトップに戻る