「ヒグマの親分」に導かれた甲子園。クラーク国際が踏み出した一歩 (2ページ目)

  • 田尻賢誉●文 text by Tajiri Masataka
  • 大友良行●写真 photo by Ohtomo Yoshiyuki

 2014年春、3年生1人、1年生8人の9人で始まった野球部はグラウンドがなく、当初はラグビー場、その後も拓殖大北海道短大のグラウンドを借りての練習だった。公式戦初試合となった14年春は空知支部予選初戦で滝川工に0対9のコールド負け。万が一、ケガ人が出ても続行不能にならないように、予備部員としてサッカー部員をベンチ入りさせていたほどだった。その年の夏に空知支部で初勝利を挙げたが、2年目も秋に空知支部で1勝するのがやっと。春秋の全道大会や夏の北北海道大会の出場すらおぼつかなかった。

 選手の勧誘も部長を務める監督の次男・達也が中学を回れるようになったのが、創部前年の12月。その時期は有力選手の進路は決まっているため、現在の3年生に中学時代主力だった選手はいない。県外から入学した選手は、1年生の6月に京都外大西から転入したセカンドの福田健悟らがいるが、その福田も「前の学校は合わずに5月にやめました。部屋でボーっとしたり、1カ月は何もしていませんでした。『自分は何をしているんだろう。もう一回、野球をやりたい』となったときに、父が『ここならやれるんじゃないか』と探してきてくれたのがここでした」と佐々木監督はかかわっていない。ようやく現在の2年生の代から勧誘ができるようになったが、できたばかりで大会で勝ててもいない野球部に有力選手はなかなかやってこなかった。

 転機となったのは、昨年6月に寮と室内練習場ができたこと。佐々木監督の妻・千明さんが寮母として入り、食事作りを担当。本格的な身体作りができるようになった。

「生徒の中には、朝ごはんを食べる習慣がない子もいた。生活習慣ができたのが一番だよね。運動して、基礎体力をつけて、あったかいごはんを食べる。母さんの加入は大きいよ」

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