亡き恩師に誓う1勝。元プロ監督、市尼崎・竹本修の挑戦 (2ページ目)

  • 谷上史朗●文 text by Tanigami Shiro
  • photo by Kyodo News

 竹本は市立尼崎のOBではない。熊本出身で高校は野球の名門・九州学院。高校2年の春にチームはセンバツ出場を果たしているが、投手の主戦は同級生の園川一美(元ロッテ)で、このとき竹本はメンバー外だった。

 中京大でも公式戦の通算成績は1勝5敗。長身左腕でストレートに勢いはあったが、ムラっ気のある気性も災いし、成績が安定しなかった。ところが、面白半分で受けたプロテストで巨人と阪急に合格。阪急を選択し、思いがけない形でプロの世界に飛び込むことになった。

 当時、阪急がファンのために月1回発行していた『THE BRAVES』という機関紙がある。その1987年1月号に新入団選手の紹介記事があり、そこに中島聡、藤井康雄、本西厚博らと一緒に、いかにも鼻っ柱の強そうな表情で並ぶ竹本の姿がある。寸評には「好きな言葉は負けてたまるか」とあり、次に目指すものは「プロでの成功しかない」と書いてある。

 しかし、プロ生活ではチャンスをつかみきれず、一軍登板は1試合のみで90年に引退。その後、球団職員として働いたあと、取得していた教員免許を生かし、教職の道へ進んだ。

 武庫工業で体育教師として採用され、サッカー部の顧問を務めた。以前はプロ野球経験者がアマチュア資格を取得するには教壇に10年立つことが必要だったが、その後5年に短縮され、97年からは2年になった。その第1号が竹本だった。

 この武庫工業時代に小橋と出会った。小橋は、2006年に上梓された『ゼロから始めた甲子園』(新風舎)で、最初に会った竹本との印象についてこう書いている。

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