消えゆくPL学園野球部。そのDNAは遠く秋田で芽吹いていた (3ページ目)

  • 菊地高弘●文・写真 text&photo by Kikuchi Takahiro

 体重が落ち、故障をし、体力が落ち、技術も落ちる……という悪循環。同じような体験をしたPL学園のOBは多い。西野が自分の思うようなボールを投げられるようになったのは、高校2年の秋頃だったという。

 それでも、西野はPL学園での生活を前向きにとらえている。

「PLでの3年間は、高いレベルで野球をやらせてもらいましたし、『1人はみんなのために、みんなは1人のために』という精神を教わりました。寮生活では、自分だけの勝手な考えではとても回りませんから。中学までは自分本位だったと思うんですけど、高校でチームのために気を配れるようになったと思います」

 大学は東農大生産学部(現・東農大北海道オホーツク)に進学。プロを目指していたが、大学2年時にヒジを手術。復帰を焦って再びヒジを壊し、あまつさえ腰まで痛めた。西野は大学で教員免許を取得し、指導者への道を模索するようになる。

 大学卒業後、最初にコーチとして赴任したのは東京の日本学園だった。“ミスター社会人”と称された西郷泰之(元・Honda)の母校として知られる同校だが、甲子園出場経験はない。そんなチームで、西野は選手との感覚のズレに戸惑ったという。

「PLでの目標は全国制覇。甲子園は目指して当たり前でしょ? そんな感覚がありました。キャッチボールなんて、できて当たり前。でも、日本学園ではそこから教えないといけない現実があって、入ってくる選手の力も違うし、設備面だって長方形の狭いグラウンドしかない。最初はPLとのあまりのギャップに戸惑いました」

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