近鉄「いてまえ魂」を受け継ぐ男、三田学園高監督・羽田耕一の挑戦 (3ページ目)

  • 菊地高弘●文・写真 text & photo by Kikuchi Takahiro

「母校だから来たようなものです。母校以外だったら受けてないだろうなと。前から母校のことは気になっとったんですよ。公式戦の結果を新聞で見たり、時間があれば見に行ったり。僕という存在がどれだけ力になれるかな? と思ったりね」

 羽田監督が在学した頃の三田学園は、まさに「黄金期」だった。1969年に入学してすぐ、先輩のバッティングに圧倒された。2学年上には山本功児(元・ロッテほか)がおり、1学年上には淡口憲治(元・巨人ほか)がいた。

「山本さんは体が大きいし、パワーもあって目立ちました。それとすごく優しい方でね。2人だけじゃなく、他の先輩も力がありましたよ。そんな先輩たちを見て、自然と迫力のあるバッティングを身につけていったんじゃないかな」

 三田学園は1969年、70年と2年連続で春のセンバツベスト8に進出するなど、4度のセンバツ出場回数を誇る。OBには他にも伊勢孝夫(元・近鉄ほか)、屋鋪要(元・大洋ほか)ら多数のプロ野球選手を輩出した。だが、岡本晃(元・近鉄ほか)を擁した91年春以降、三田学園は甲子園から遠ざかっている。近年は学校として進学面に力を入れており、野球部はすっかり低迷している。

 羽田監督が就任して選手たちの練習を見て、まず驚いたことがあるという。それは「キャッチボールができないこと」だった。

「キャッチボールは野球で一番大事なこと。足を使ってキャッチボールすることでフットワークが向上して、それがバッティングや走塁にもつながっていきます。それをできない子がいたので、最初はびっくりしたね。ただ、野球は好きな子ばかりだから、『卒業までに普通にできるように頑張ろうな』と言いました。最近はそれなりに放れるようになってきましたよ」

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