八重高か八重商か。石垣島の野球少年たちの、それぞれの決断 (5ページ目)

  • 石田雄太●文 text by Ishida Yuta
  • スポルティーバ●写真 photo by Sportiva

 一方、八重商にも中学からひとりだけ、違う道を選んだ選手がいた。キャッチャーの前粟藏(まえあわくら・ともひろ)知弘である。石垣中のメンバーは、サードの黒島投真、レフトの与那嶺、ライトの新里光平ら、揃って八重高を選んでいた。しかし前粟藏だけは八重商を選んだ。彼は八重山ポニーズ時代、沖縄選抜に選ばれてポニーリーグの世界選手権で優勝し、世界一に輝いた実績を持っている。甲子園出場への意識も高く、チームメイトが「八重高から甲子園へ行こう」と八重高へ進んだのにもかかわらず、ひとりだけ、八重商の門を叩いた。前粟藏はこう言っている。

「自分は小学校の頃から甲子園を見ていたんですけど、八重山商工が出たとき、自分も八重商へ行って、伊志嶺監督と一緒に甲子園の舞台に立って、甲子園で活躍したいという思いがありました」

 4回表まで、毎回、3者凡退を繰り返す八重商。

 4回裏まで、毎回、ランナーを出しながら、ホームが遠い八重高。

 5回表、八重商に初ヒットが出て、八重高の攻撃が3人で終わった。5回を終わって0-0ではあったが、4回までは八重高が押しながらも得点することができず、5回の攻防で潮目が変わったような気がした。

 重たい空気が球場を支配していた――。


(後編に続く)

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