「末代の恥」から6年。開星前監督・野々村直通が見た甲子園 (2ページ目)

  • 菊地高弘●文 text by Kikuchi Takahiro
  • 大友良行●写真 photo by Ohtomo Yoshiyuki

 このコメントはすぐさま日本全土を駆け巡り、野々村氏は「向陽高校に対して失礼だ」と日本中から批判にさらされた。

 その後、謝罪会見を開いたものの、その際に着ていた派手な彩色のシャツがまた「不謹慎だ」と槍玉にあがり、野々村氏へのバッシングはさらに過熱する。その結果、野々村氏は監督辞任に追い込まれ、長い謹慎生活を送ることになった。

 野々村氏はこの舌禍事件以前から「超」がつく個性派監督として知られていた。いかつい風貌で、ついたあだ名は「やくざ監督」。甲子園の抽選会にはいつもひとりだけ羽織袴を着用して参加していた。

 あるとき、明徳義塾の馬淵史郎監督を見つけ、名刺を差し出そうと懐に手を入れたら、馬淵監督から「拳銃でも出すんかと思った」と恐れられたという逸話がある。また、高校野球監督としては異色の美術教師で、「山陰のピカソ」という異名まで持っている。

 そんな強烈なキャラクターの野々村氏だったが、教育と野球にかける情熱は凄まじく、多くの教え子、指導者、メディア、高校野球ファンから愛されてきた。そして、野々村氏は日頃からこんなことも言っていた。

「試合に負けたら誰にも会いたくないし、死んでしまいたくなる」

 このように勝負にかける決死の思いが募るあまり、2010年のセンバツではそれが悪い方向に出てしまった。

 謹慎中の野々村氏を支えたのは妻の喜代子さんをはじめ、家族たちだった。喜代子さんが当時について、「時間ができて、いろんなところに旅行ができました。人に気づかれることも多かったけれど、芸能人のお忍び旅行みたいで楽しかったですよ」と言ってのけるような胆の据わった女性だったことも、野々村氏を救ったに違いない。

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