横浜高の名将・渡辺監督が最後の夏に語った「悔恨の思い」 (2ページ目)

  • 柳川悠二●文 text by Yanagawa Yuji
  • 大友良行●写真 photo by Ohtomo Yoshiyuki

 72年の秋季関東大会で江川擁する作新学院に敗れ、リベンジを掲げて挑んだ73年選抜で優勝し(結果として江川との対戦はなかった)、80年夏には辛抱強く育てた愛甲猛が深紅の大優勝旗をもたらした。その後、県内で勝てない時期がしばらく続くと、90年に横浜高校の同級生だった小倉清一郎を呼び戻した。以降、二人三脚で全国屈指の強豪校を築き上げ、98年は松坂大輔(現・福岡ソフトバンク)らが春夏連覇を達成。さらに、06年の選抜でも福田永将(現・中日)らを擁し、日本一に輝いた。

 70年代、80年代、90年代、そして00年代に優勝を経験した監督は渡辺監督ひとりしかいない。全国制覇5度、甲子園通算51勝(歴代3位タイ)を誇る渡辺監督は、小倉氏とタッグを組んでからは教育者としての役割に徹し、技術指導は小倉氏に任せていた。

 近年の渡辺監督に対して好々爺のような印象を抱く高校野球ファンも多いかも知れない。しかし、小倉氏は「若い頃は、私以上の鬼だった」と表する。力ずくの指導が当たり前で、猛練習こそが最善の策と誰もが思っていた時代だった。

「過去には悪い選手もいましたし、気の弱い選手もいましたけど、諦めずに選手を引っ張ってこられた。選手も私を信頼してついてきてくれた。お互いに、白いボールを追っかける中で、絆が生まれ、人生がある」(渡辺監督)

 小倉氏は選手を叱咤しながら、100試合に1回あるかないかのプレイに備えて練習し、細かな野球を指導してきた。試合前には、相手校を丸裸にした「小倉メモ」を選手に手渡し、データを駆使して攻略していった。一方、小倉氏のフォロー役は渡辺監督が担い、近年は選手と携帯電話のメールでやりとりするなど、時代に即した人間教育を行なってきた。

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