横浜の渡辺監督とはベテラン漫才師みたいな関係だな

  • 柳川悠二●取材・文 text by Yuji Yanagawa
  • 大友良行●撮影 photo by Yoshiyuki Ohtomo

 同じ横浜高校野球部出身のふたりであるが、卒業してからの50年は対照的な野球人生を歩んだ。神奈川大学中退後に母校の監督に就任した渡辺に対し、小倉は東京農業大から河合電気を経て、東海大一(静岡、現東海大翔洋)のコーチを務めた。その後、77年に一度、小倉が横浜高校の監督を務め、渡辺が部長に退いた時期があったが、その後、意見の衝突が理由で袂(たもと)を分かつ。小倉はY校(横浜商業)のコーチに就任し、83年の選抜および夏の選手権で、決勝まで導いた(いずれも準優勝)。横浜を離れてわずか2日後にはY校のコーチに就任したというから、ふたりの溝の深さは相当なものだったのだろう。

 再びコンビを組んだのは90年秋である。偶然、磯子の駅で再会し、横浜高校の監督復帰が決まっていた渡辺に「もう一度一緒にやらないか」と誘われたのである。以来、いまさら説明も不要だろうが、松坂大輔(現メッツ)や成瀬善久、涌井秀章(ともに現ロッテ)らを育て、数多の教え子をプロ野球界へと送り出してきた。
「もちろん、横浜高校では素晴らしい経験をさせてもらった。長い指導者人生で、甲子園で60勝以上もすることもできた。悔いはないね」

 今後は野球指導者として全国を行脚するという。まずは東京六大学野球の東大野球部を視察し、奄美大島の大島高校など、全国の高校からも依頼が届いている。

 そして9日から始まる甲子園にも足を運ぶ。小倉は監督経験こそないものの、部長やコーチとしてかかわった3つの高校で甲子園出場を果たし、通算勝利数は62勝。これは63勝で歴代最多の智弁和歌山監督・高嶋仁に次ぐ数字だ。

 そんな小倉にとって甲子園でのベストゲームは98年大会の準々決勝、PL学園戦だという。
(つづく)

横浜高校の名参謀・小倉清一郎の人生(全3回)>>


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