[2011年07月22日(金)]
【小田嶋隆】「なでしこ」という可憐な花の愛で方
「勇気をもらう」という言い回しを、私は本来、好まない(←気味が悪いと思っている)者だが、それでも今回は、テレビに出てくる人々が、口々にこの常套句を繰り返すことに違和感を抱かなかった。理由は、私自身が、勇気をもらっていたからだ。さよう。なでしこは、ゲームを見ていたすべての日本人に元気と勇気をもたらしてくれた。この功績は言葉では言い尽くせない。ありがとう。
ついでに申せば、「なでしこ」という言い方も、実は好きではない。命名以来ずっと、なじめないでいた。
が、このたび、優勝に至るまでの数試合をともに闘う中で、私は、いつしか、この名称と和解している自分を発見することになった。「なでしこ」は、彼女たちそのものだった。いまとなっては「女子日本代表」という他人行儀な呼び方で、彼女たちに呼びかけようとは思わない。なでしこはなでしこ。日本が世界に誇る、しなやかで強い、可憐な花だ。
あらためて振り返ってみるに、私は今大会の予選リーグから決勝までの試合をすべて生(テレビ経由だけど)で観戦している。これほど真剣にひとつのチームの足取りを追い続けたのは、おそらく、1999年のワールドユース準優勝チーム以来だ。
なので、優勝の瞬間は、まさに感無量だった。澤穂希選手の同点ゴールが決まった瞬間、私は椅子から立ち上がっていた。こういうことは滅多に無い。私はレッズサポとしては例外的に落ち着いた観戦者で、それゆえ、さいたまスタジアムではしばしば赤心を疑われている次第なのだが、その私が椅子から立ち上がったということは、これは大変なことなのだ。松木安次郎標準で換算すれば、皇居のお堀を万歳バタフライで泳ぎ切ったぐらいの感動量に相当する。
その私の巨大な感動は、しかしながら、丸二日ほどしか持続しなかった。
選手団が帰国し、会見が行なわれ、なでしこの家族やふるさとの同級生たちにメディアが群がるようになると、私の中の感動は、漸次食傷に変じはじめていた。
理由は、なでしこのメディア露出が全方位的に花魁(おいらん)道中ライクで、しかも映像処理からインタビュー原稿の作り方に至るまでのあらゆる演出手法が、あまりにも典型的にステレオタイプだったからだ。
群がるマスコミ。お花畑を踏み荒らす野次馬。ダッシュするバーゲンばばあ。そういう景色を横目で眺めながら、私はたった半日で心の底からうんざりしていた。
結局、画面の中で起こっていたことは、あらゆる番組が同じフォーマットで感動を振り返った結果、代わり映えのしない映像が死ぬほど繰り返されるという、この国で何か晴れがましい出来事が起きた時に毎度繰り返されてきた愚かな光景のデッドコピーだった。毎度使いまわしのひな壇式のスタジオセットとまったく同じ質問。判で押したような大げさなリアクションと、どうにもあざとすぎるCM挿入タイミング。そうこうしているうちに感動は擦り切れ、ぎこちない沈黙の中で、視聴者はアラさがしをはじめる。
「◯◯選手って、なんかお化粧ハデになってきてない?」
一億総小姑。サッカーに特段の興味を持っていない時間帯の視聴者は、近所の適齢期の娘が偶然テレビに映った時みたいな目線で液晶画面を検分する。
「◯◯ちゃん、目いじった?」
いじってないってば。まったく。
と、かように、ツイッターやミクシーのようなお手軽な井戸端会議の場を与えられた21世紀の視聴者が、その舌鋒を磨いている一方で、メディアは、いまだに、結婚前の若い女性を一人前の人格として扱おうとしない。
というよりも、「女の子」を一人前扱いにすることは、彼女の「可愛らしさ」を認めていないという意味で、かえって失礼に当たる、と、現場はどうやらそんなふうに考えている。
特にテレビのような晴れがましい場所では、「女子認定」が絶対的な基準になる。具体的に言うと、メディアの人間の間では
「若い女性と対面した場合には、実年齢よりも子どもっぽい人間として扱うことが、相手に対するサービスになる」
といった感じの、一種屈折したマナーが共有されているということだ。
だからたとえば朝ニュースのゲストコメンテーターは浅田選手を「真央ちゃん」と呼び、宮里選手に対しては「藍ちゃん」と呼びかける。彼女は、選手を卑下しているのではない。むしろ、女性アスリートに対して同じ年頃のアイドルや女優さんに適用しているのと同じプロトコルを用いることによって、アスリートの地位を高めているつもりでいる。
それを「差別だ」と言う人たちもいる。
むずかしい問題だ。
好意として示される差別。サービスとして提供される偏見。そういう、「おためごかし」が偏見を補強し、差別を固定化している側面はたしかにある。
でも、だからって、どうすれば良いのだ?
時代劇に出てくる「剣術道場の跡取り娘」のパターンに似ている。
男勝りの小太刀を使う美少女。名前は桔梗(ききょう)。
ばあや(←母は既に亡い)は、料理も裁縫も知らないその育ちぶりを嘆き、婚期を逃すことをしきりに気に病んでいる。いわゆる「女丈夫」の筋立てだ。
なでしこの選手たちにむかって、朝昼のおばさんメディアが「結婚」や「恋」や「料理」といった、「娘」の話題を振りたがるのは、彼女たちを軽んじているからではない。むしろ好意のあらわれだ。彼女たちは「ばあや」の役柄を演じている。
彼女たちは、桔梗どのの「男勝り」の剣を、揶揄しているようでいて、実は称揚している。そういうフォーマットなのだ。
『とくダネ!』では、例によって小倉キャスターが「好人物の次席家老」ぐらいな役柄を得意満面でこなしている。
「どう? 結婚は考えてるんでしょ?」
小倉さんの真骨頂は、どんな偉大なアスリートに対しても、そこいらへんのOLさんや女子大生に接する時みたいな調子で話しかける、その距離感にある。
司会者のこの態度は、ハタから見ていると、ちょっと失礼に見えたりもする。
「女性蔑視じゃないか」
という受け止め方をする視聴者もいる。
が、おそらく当事者は、蔑視とも軽視とも感じていない。むしろ、「普通の女の子」として扱われたことに救われた気持ちをいだいている可能性が高い。
ここに、面倒くささの本質がある。
結局、うちの国の人たちは、メディアも視聴者も、それに選手たち本人も、大人になることに対してあまり積極的じゃないのだ。
日本の女性アスリートは、心のどこかで可愛らしい女の子であることを捨てきれずにいる。だから、真央ちゃんなどは、自分で自分を「真央」と呼んでいたりする。
普通の文脈で言うと、人として自立していないアスリートが世界に伍して闘えるはずはない。そういうことになっている。
藍ちゃんだったり、まなたんだったり、ミキティーだったりみたいなクソ甘ったれた名前で呼ばれている選手が、国際舞台で活躍できるほどスポーツの世界は甘くないのだ……と、ぜひ言い切りたいところなのだが、どっこいわが日本の女性アスリートは、強い。
小さくで、可愛らしいにもかかわらず、だ。
さよう。日本の女性アスリートは、デカく、ふてぶてしく、たくましい、諸外国の女性アスリートを度々凌駕している。
そして、デカくなろうと頑張っている日本の男性アスリートよりも、国際舞台では、より優秀な成績を残している。
なでしこのイレブンも、チーム青森の面々も、グリーンの上の彼女たちも、二倍ぐらい体重のありそうな外国のデカくてコワいおばちゃんたちに、決して負けていない。
男子サッカーは、なでしこに学ぶべきなのかもしれない。
小さくて、可愛らしくて、それでいて強いサッカー。
ってことは、ジャニーズ系サッカーか?
ジャパニーズからパの字を取る。
パねぇサッカー。
うん。イケるかもしれない(笑)。
プロフィール
- 小田嶋隆(おだじま・たかし)
1956年東京・赤羽生まれ。早稲田大学卒業後、食品メーカーに入社するも1年ほどで退社。その後、小学校事務員見習い、ラジオ局ADなどを経てテクニカルライターとなり、コラムニストとして活躍中。また、浦和レッズサポとして、埼玉スタジアムにも出没。都内を自転車で移動する肉体派?な一面も。
近著に『その「正義」があぶない。』(日経BP社)『地雷を踏む勇気〜人生のとるにたらない警句』(技術評論社)『人はなぜ学歴にこだわるのか』(光文社知恵の森文庫)、『イン・ヒズ・オウン・サイト』(朝日新聞社)、『9条どうでしょう』(共著、毎日新聞社)、『テレビ標本箱』(中公新書ラクレ)、『サッカーの上の雲』(駒草出版)『1984年のビーンボール』(駒草出版)など。



















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