常にアグレッシブ。挑戦者であり続ける羽生結弦選手 (2ページ目)

 また、当時まだ16歳だった羽生選手の受け答えが、その頃からとてもしっかりしていて驚かされるとともに、こう語っていたことをよく覚えています。

「東日本大震災で被災したみなさんのために、自分にできることは何かということをずっと考えている」

photo by Yamamoto Raitaphoto by Yamamoto Raita 仙台で生まれ育った羽生選手は、2011年3月の東日本大震災直後は呆然とした気持ちになり、「もうスケートを辞めるしかないかな......」と考えていたといいます。それでも、仙台市内を歩いていた時たくさんの人から「頑張ってください。スケートを続けてくださいね」と声をかけてもらい、そのことが「自分がスケートをやることで、元気づけられる人がいるのかもしれない」と、競技を続ける決意をするきっかけになったのです。

「僕自身、被災者という立場でありながら、スケートを続けさせてもらえているのは、多くの人の支えがあってのこと。10年後の自分はたぶんプロスケーターとして活動しているだろうから、その時は色々な形で恩返しをしたいです」と、将来のことも語ってくれた羽生選手。「ソチ五輪で金メダルを獲ることが目標」であると同時に「そこは終わりではなく出発点だと思っている」とも話していました。

 そんなふうに16歳のころから自分の将来の目標を明確に考えていた羽生選手ですから、今年の中国大会でアクシデントに見舞われながらもフリーを滑りきったことは、「立ち止まるわけにはいかない」という強い気持ちの表れだったのではないかと思います。

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