
Vol.7玉乃淳
F・トーレスと2トップを組んだ男の10年
小宮良之●取材・文YUTAKA、川窪隆一、築田純/アフロスポーツ●写真提供
2009年4月26日、正田醤油スタジアム群馬。雨雲に覆われた空は暗く、光が射し込んでくる気配はどこにもなかった。彼はずぶ濡れになりながら、ピッチ脇でウォームアップを続けていた。
「いつでも行けるのに」。募(つの)る焦りをかみ殺すのに必死だった。ベンチから交代選手が呼ばれる。0−2でリードされ、ホームチームとしては攻撃的選手を投入する展開。しかし呼ばれたのは高卒ルーキーだった。
「交代枠はもうひとつ残っている。最後までチャンスを待つんだ」。心を奮い立たせ、辛抱を決め込んだ。
2009シーズン、J2ザスパ草津に入団した彼は9節までわずか22分間の出場にとどまっていた。この日の対戦相手は古巣の東京ヴェルディだっただけに気持ちも高ぶったが、「焦るなよ」と自分に言い聞かせ、感情を理性で押し殺した。試合は淡々と流れ、ロスタイムに入った。スタジアムに熱がわき起こるようなシーンは訪れず、チームは交代枠を残して敗北の姿を晒した。
心は晴れぬまま、彼は無言で雨に打たれるのだった。
「中田、小野、中村を超えるファンタジスタがスペインからやって来る!」
かつて玉乃淳(25歳)は日本サッカー界に颯爽(さっそう)と現れた風雲児だった。折しも、2002年日韓W杯開催で日本中がサッカーの熱に浮かれていた時代、「15歳から3シーズンに渡り世界最高峰のリーガ・エスパニョーラ、アトレティコ・マドリードの下部組織に在籍」という経歴は、文句なしに人々の目を引いた。
アトレティコ入団のキッカケは、東京ヴェルディジュニアユースの一員として参加した『99年ナイキ・プレミアカップ』のレアル・マドリード戦だった。バルセロナ市、カンプ・ノウ・スタジアムの隣にあるミニ・スタディで、彼は5000人近い観衆を味方に付けた。地元の人々にとって、宿命のライバルであるレアル・マドリードを敵に回す選手はそれだけで応援に値したのだ。
玉乃はマドリードの選手たちのタックルを軽々とかわした。傲慢で侮蔑的な笑みを顔中に浮かべていた奴らが慌てふためく姿が楽しくて堪らなかった。どこからともなく力が湧いてきて、全員ドリブルで抜ける気がした。ロスタイムには相手を嘲(あざ)笑うようにボールをキープしてからわざとスタンドに蹴り込み、観客を煽った。
「見ろよ、こいつらのざまを」。スタンドが地響きするように沸くと、脳内に大量噴出したアドレナリンで気分はハイになった。
名門マドリードを相手に大胆不敵なプレイをやってのけた日本人少年には、スペイン国内で複数のクラブが食指を動かした。
「施設や練習の雰囲気を見て、アトレティコとの契約を決めました。スペインは試合も盛り上がるし、ここでやりたいなと思ったんです。サッカーに関しては不安はなかったですね」と玉乃は回想する。
「スペインはアドレナリンが出やすい環境なのか、その後もレアル・マドリードのような強い相手やタイトルがかかった試合では夢中でやれました。ユースの試合でも観客は野次も飛ばすし、選手が自然と興奮する状態にあるんです。例えばヒターノ(ロマ)たちの地区のチームと対戦すると、ものすごい圧力で完全にアウェーという感じだったけど、それはそれで燃えましたね」
1年目は公式戦13試合に出場、8得点11アシストを記録した。現在リバプールに所属するスペイン代表FWフェルナンド・トーレスと2トップを組んだこともある。16歳にしてトップの練習に合流していたトーレスは身近にいたプロ選手の鏡だった。彼自身も自然とプロ意識が発達、言動が型にはまりがちな日本人選手としては異端だった。ある日本人記者とのインタビュー、「ヘディングは頭が悪くなりそうで好きじゃない」と軽口も叩いた。
「今思えば、恥ずかしくなるくらい自信家でしたね」と玉乃は振り返る。
「ただ、スペイン人は我が強くて、こっちが要求をしないといけない環境だったんです。技術では誰にも負けないと思っていたし、強気でないとやれなかった。そんな環境のおかげか、信じられない力を出せ、自分の理想とするプレイができることもありました。一方で理想と程遠いプレイをすると絶望感に苛(さいな)まれ、この世の終わりのように思えて落ち込んで。その折り合いはなかなか付けられなかった」
2002年には、玉乃をモデルのひとりにしたサッカー小説『龍時』(文藝春秋社、野沢尚著)が出版されている。主人公である日本人少年、志野リュウジは日本選抜の一員としてスペインU−17代表と対戦し、「これが世界のレベルか」と愕然とする。そこでスペインに単身で飛び込むことを決意、日本人であるがゆえにいわれなき洗礼を浴びながらも、異国で一人前の選手に成長していくという物語だ。
主人公が覚醒するシーンの心理描写は小説家ならでは。自分ではない自分に変身するのに似た感覚、その血の滾(たぎ)りは玉乃がまさにスペインで体験したものだった。
しかし小説と現実は異なる。
リュウジはセカンドチームでの活躍が認められ、ベティスとプロ契約をするが、玉乃はスペインでプロになることはなかった。当初はリーガ2部にいたアトレティコのセカンドチーム、アトレティコBに昇格予定だったが、トップがまさかの2部降格でアトレティコBは3部に自動降格した(同リーグにセカンドチームは所属できない)。EU外選手は2部までしかプレイできないため、契約はなくなった。
2002年、18歳で帰国を余儀なくされ、東京ヴェルディとプロ契約した。
日本に戻った彼は痺(しび)れるような感覚を失っていった。
- 2002年 5試合1得点(リーグ戦記録、以下同)
- 2003年 3試合1得点
- 2004年 2試合0得点
リュウジはシナリオ通り、2004年アテネ五輪に主力として出場し、玉乃は完全にレールから外れた。
2005年、ヴェルディでようやくレギュラーを掴みかけるも、後半戦にチームが失速して2部降格の失意を味わう。2006年には出場機会を求め、J2徳島ヴォルティスに移籍して主力選手として活躍。2007年にはJ1の横浜FCと契約するもわずか6試合出場にとどまった。2008年にはJ2徳島に舞い戻り、再び主力になりながら思いがけず戦力外通告を受け、トライアウトに参加した。
「トライアウト後はストレスで肺炎になりました。引退も考えて。全部、自分に実力がなかったからですけど」
玉乃は妙に大人びた顔で言った。
メイドインスペインの天才少年、輝かしく見えた未来は幻想だったのか。























