「日本の短距離の歴史が変わる瞬間を見せて欲しかった」北京五輪4×100リレーメダル獲得の裏でリザーブ・齋藤仁志は何を思っていたのか (3ページ目)

  • 折山淑美●取材・文 text by Oriyama Toshimi

 合宿中は私と高平さん以外はコンディション不良もあってなかなかバトン練習ができていませんでした。でもあの4人は少ない機会の中でも、『じゃあやるぞ』と言ってビューッと走ったら、完璧にビシッと合わせてくるんです。阿吽の呼吸と言いますか、一朝一夕にできるものじゃないと思いました」

 そんな憧れの選手たちと練習を重ねた齋藤は自分の役割をこう考えていた。

「僕の最大のサポートは、いかに4人にプレッシャーを掛けるかということ。自分のコンディションを最大限整えて『いつでも奪い取ってやる』というのを見せることだと思っていました。でも皆さんもちろん、必死に自分の場所を守ろうと弱みは一切見せなかった。『もう走れない。無理だよ』という先輩はひとりもいなかったです。

 塚原さんもリレー本番ですごい走りをしましたが、(100m個人で痛めて)練習では脚を気にする素振りを見せていました。それでも『任せておけ。大丈夫だ』と言い続けていました。リレーは、ただ足が速いだけじゃ勝てないものがあるのではないかと感じました」

 予選で走れなかった時点で、自分の出番はもうないだろうと思った。決勝も最初のウォーミングアップの時にオーダーが決まったが、脚に不安があった塚原の状態を確認しただけで、オーダー変更は行なわれなかった。

「もしあれが五輪でなければ、僕がきっと1走か2走を走っていたと思います。誰かしら、『俺は走れない』という言葉が素直に出ていたのではないかなと。でも、五輪の舞台は特別なものだから誰もそう言わないし、世界大会の舞台に一度も立ったことのない学生アスリートを走らせるというのはチームとしても怖い部分があったんじゃないかなと思います。実際僕は、そのあとの国体のバトンパスで、アンダーとオーバーを間違えたので。もしそれを五輪でやっていたら、僕は日本に帰ってこられなかったと思います(笑)」

 走らずとも憧れの選手たちの雄姿を一番近くで見ていた当時の気持ちを改めてこう話す。

「もちろん悔しかったと思います。でも、みんなが『俺に任せておけ』という雰囲気でいるのが本当に心強かった。自分が走りたいという気持ちは強かったけど、あの4人がずっと苦しい思いをしながら当日を迎えたのも知っていましたし......。ライバルでありたいというよりは、そのまま強い先輩たちでい続けて、4人にしっかり日本の短距離の歴史が変わる瞬間を見せて欲しかった。それはもう、嘘偽りのない気持ちでした」

後編:「陸上が楽しくなかったし、最後はプレッシャーのほうが強かった」>>

Profile
齋藤仁志(さいとう・ひとし)
1986年10月9日生まれ。栃木県出身。
中学から陸上を始め、筑波大学進学後に選手として開花。大学2年から4年までインカレの200mで三連覇を果たす。2008年北京五輪にてリレーのリザーブとして選出されたものの、出場はなし。その後、世界陸上代表に選出されるなどロンドン五輪での活躍も期待されたがケガに悩まされ、2017年以降は大会に出ていない。現在は埼玉県東野高校にて、陸上部顧問を務め、学生たちに陸上の楽しさを伝えるとともに指導を行なっている。

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