【男子バレー】春高バレー、ジャニーズとのコラボ...松平康隆のメディア戦略

  • 中西美雁●文 text by Nakanishi Mikari
  • 望月仁/アフロ●写真 photo by Mochizuki Hitoshi/AFLO

北京五輪最終予選で16年ぶりの五輪出場を決め、植田辰哉監督と抱き合って喜ぶ松平北京五輪最終予選で16年ぶりの五輪出場を決め、植田辰哉監督と抱き合って喜ぶ松平松平康隆と日本バレー(3)

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 1967年、文部省(当時)の、高校生による全国大会を年に2回とするという規定が緩和された。その頃、バレーボールの高校生の全国大会は、夏のインターハイと、秋の国体だけであり、そのいずれもがバレーボール固有の大会ではなく、総合競技大会の一種目という位置づけであった。このことと、若年層の強化の目的もあって、当時の前田豊日本バレーボール協会副会長と松平康隆副理事は、夏の高校野球、冬のラグビー、サッカーなどのように、全国の高校生バレーボーラーのあこがれとなるような新大会創設のために奔走した。

 松平のこの強い思いを受け入れてくれる後援者はどこだ、となったときに白羽の矢が立ったのが、テレビ、ラジオ、新聞など各メディアを統括するフジサンケイグループだった。当時、産経新聞は拡販サービスの手段が何かないかということを模索していた。また、フジテレビも、夏の高校野球にあたるようなスポーツコンテンツがないかと探していた。ここに三者の思惑が一致し、進学や転勤などで引っ越しが多く、新聞の切り替え時期でもある春に高校バレーの大会を設けることとなった。

 フジテレビスポーツ局ゼネラルプロデューサーの川口哲生によると、生前の松平は何度も「僕が協会に進言してできた大会なんだよ」と誇りに思っていた様子だったという。この大会は、2011年から1月に開催時期をずらし、3年生も出場できるようになった。この時、松平は大変喜んだ。もともと産経新聞の拡販の都合によって3月に位置づけられていたものの、松平としては、本当は3年生の集大成として臨める夢舞台であってほしかったようで、その実現をことのほか歓迎した。季節は正確には冬になったが、「春高バレー」の愛称はそのまま残ることになり、現在に至っている。

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