【育将・今西和男】毎年ドイツに渡り、「プロ」風間八宏を口説いた

  • 木村元彦●文 text by Kimura Yukihiko   織田桂子●写真 photo by Oda Keiko

 一方、このときの心境を風間はこう語る。「実はもう自分は大学を卒業したら西ドイツ(当時)に渡ろうと決めていたんですよ。代表にもなっていたし、このまま日本リーグに入ってレギュラーになる。そうしたら目標がなくなってしまう気がしていた。だから本気でヨーロッパでサッカーをやりたかった。行く気持ちがないのに、今西さんにお会いするのはその方が失礼だと思っていたんです。そりゃあ、貧乏な学生でしたから、会ってメシはご馳走になりたかったですが(笑)」
 
 風間は1984年5月、西ドイツに忽然と旅立つ。恩師である松本の紹介でブンデスリーガ1部のレバークーゼンのテスト参加のメドが立ったのである。インターネットどころか、ファックスもまだ普及していない時代である。出発は直前に言われた。「明日もう行くしかないそうだが、どうする?」「わかりました」

 森岡理右部長は翌日、東京駅の喫茶店で記者も何名か集めて待っていてくれた。「立て替えて買っておいた。これがチケットだからこれで行け」
 
 ユースの頃から海外遠征は頻繁に行っていたが、1人で渡航するのは初めてだった。風間はその南周りのチケットで40時間かけてフランクフルトに降り立った。 
 
 代理人も通訳もいない。冷戦時代であるから欧州連合体などという発想もなくて、当然ボスマン協定(EU圏内のプロサッカー選手に契約満了後の移籍の自由を保証)も存在しない。チームの外国人枠は2名しかない。契約書も自分で翻訳して交渉しなくてはならない。そんな環境下で5年間揉まれ続けた。しかし物怖じはまったくしなかった。3つ目のクラブ、ブラウンシュバイクでは監督のウベとよく大喧嘩になった。たいていは風間がぶつかっていった。

「なぜ、ホームもアウェーも同じプランで試合をしなきゃいけないんだ。俺たちは」「ここにマラドーナはいるのか」「いなくても出来るだろう」「カザマ、お前は何だ! どっちが監督なんだ」「あなただ」「だったらいい」

3 / 5

厳選ピックアップ

キーワード

このページのトップに戻る