【JFL】日本サッカーを救った男・我那覇和樹のリスタート。「やりきる自信が出てきた」 (2ページ目)

  • 木村元彦●取材・文 text by Kimura Yukihiko
  • photo by Kimura Yukihiko

 しかし、当時の規程ではこの場合、第4種に属する小学生も48時間以内にTUEを出さなければ、ドーピング違反にされたのである(事実、ドーピングコントロール委員会では「子どもでもドーピングになる」という説明がなされていた。この場合、治療した学校や小児科の医師などもドーピング幇助で永久追放になる)。

 Jリーグのチームドクターたちの働きかけで、さすがにこの規定は3カ月で改正されるのであるが、Jリーグの選手たちはJFAがJADA(日本アンチドーピング機構)に正式加盟する2009年1月まで依然、このローカルルールを義務付けられていたのである。

 これなどはほんの一例である。その間のサッカー界における医療の混乱は極めて大きかった。

 当時、医学委員長は2007年に正当な医療行為を受けた川崎フロンターレ(当時)の我那覇和樹選手を、規定を誤って適用しクロと裁定していた。自らがクロと裁定した判例を正当化するために、詭弁と詐術を弄し、さらにはそれを補完するようなローカルルールを発効していったのである。

 その状態はドーピングコントロールでは最も進んだ日本の陸上競技のアンチ・ドーピング委員が「サッカー界のドーピング規程はまるでガラパゴスだった」と嘆くほどに、世界標準から遊離していたものだった。結果、当時はJリーガーとドクターたちがドーピング冤罪の恐怖に晒されて正当な治療を行なえず、手遅れになりそうな選手が続出したのである。

 渦中にあった我那覇は、誰からも真実を知らされなかったが、そのことを一通の手紙で知ったとき、立ち上がった。

 彼が何千万円もの私財を投じ、他の選手を巻き込まずにたったひとりでCAS(国際スポーツ裁定裁判所)に提訴をしたのは、自身の名誉のためだけではない。こんな被害は自分だけで食い止めなくてはいけないという思いだった。結果、我那覇がCASで勝った意味はとてつもなく大きかった。

 先述の委員長は「国際大会で点滴の道具を持っていただけでドーピング違反」とも(公的な事情聴取の場で)発言していた。ならばW杯で日本代表選手だけが、体調を崩しても点滴治療ができず、試合どころではなかった。もしも我那覇が立ち上がっていなかったら、JFAの正当な医事改革は行なわれず、代表の南アW杯の決勝トーナメント進出もなでしこジャパンの世界一も成し遂げられていなかったかもしれない。

 その意味で我那覇の行ないはW杯でゴールを決めるよりも崇高な貢献であった。

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