カタールW杯で6回目の優勝に突き進むセレソン。ヨーロッパナイズされながら、ブラジルらしさを漂わせる魅力的な仕上がり (3ページ目)

  • 西部謙司●文 text by Nishibe Kenji
  • photo by Getty Images

マリオ・ザガロとワールドカップの栄光

 1960年代の黄金時代はペレとガリンシャの時代なのだが、ワールドカップとブラジルということなら、ザガロこそ最も深く関わった人物と言えるだろう。

 1958、1962年の連覇における戦術的キーマンだったザガロは、1970年優勝時は監督だった。4年後の1974年西ドイツW杯も監督を務めて4位。4回目の優勝となる1994年アメリカW杯はテクニカルディレクターで、カルロス・アルベルト・パレイラ監督との実質的な二頭体制だった。1998年フランスW杯は監督に返り咲いて準優勝。ザガロが関わったブラジルは一度もベスト4を外していない。

 一方で、ザガロはセレソンの「揺れ」を象徴する人物でもあった。圧倒的だった1970年の後、ペレが引退した1974年のチームはブラジルらしさの欠けた守備的なチームと評されている。

 ヨーロッパ勢の強度や組織力を採り入れ始めた時期でもあった。1978年アルゼンチンW杯のクラウディオ・コウチーニョ監督は3位だったのに、さらに守備的になったと藁人形を燃やされるほど国民的不人気をかこっている。ヨーロッパに対抗するためにヨーロッパの強みを採り入れようとしてうまくいかず、さらにブラジルらしさも失うという救いのなさであった。

 1982年スペインW杯は「ジョガ・ボニート(美しいプレー)」の最右翼であるテレ・サンターナ監督の下、「黄金の4人」を擁して久々のブラジルらしさ全開だったが、結果は2次リーグ敗退でベスト4にも入れず。4年後の1986年メキシコW杯も準々決勝でフランスにPK戦で敗退した。

 ジーコ、ソクラテス、ファルカン、トニーニョ・セレーゾの「黄金の4人」は1982年限定のカルテットだったが、変幻自在のパスワークと流動性でブラジル版トータルフットボールとも言うべき魅力があった。

 図面上はエデルとセルジーニョの2トップとなっているが、左のエデルはザガロ後継型のワーキングウインガーでほぼウイングバック。右にガリンシャ風のウイングがいないかわりに、ジーコとソクラテスのダブル10番、右サイドはサイドバック(SB)のレアンドロなどが攻め上がった。

 また、黄金の4人は実質5人で、左SBのジュニオールが現在で言うところの「偽SB」として組み立てに加わっていた。もともとMFの構成は3人でウイングにはディルセウ、パウロ・イジドーロを起用していたのだが、大会中に「黄金」が定着という即席感もまたブラジルらしかった。

 ただ、このブラジルらしいチームがベスト4にも残れなかった事実は重かったとも言える。1989年にセバスティアン・ラザローニ監督に代わってからは伝統のゾーンを廃してリベロ付きの3バックを採用。しかし、かつてないほど堅実なブラジルは1990年イタリアW杯でディエゴ・マラドーナのアルゼンチンにカウンター一発でやられて、ラウンド16敗退となってしまう。

 攻めても守っても優勝できない状態を救ったのが、可変システムだった。ボランチの1人が中盤とディフェンスラインを行き来することで、3バックと4バックを併用。この可変式システムで、1994年アメリカW杯では24年ぶりの優勝を成し遂げる。

 攻撃時に巨大な円形となる布陣の中心には10番のライーがいるはずだったが不調で先発を外れ、中心点を欠いたままロマーリオの得点力で勝ち上がったので"らしさ"はいまひとつ。とはいえ、ブラジルの伝統とヨーロッパを融合というジレンマの解消に成功している。このチームに関わったザガロらしさでもあった。

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