山口素弘が語る「横浜フリューゲルスの思い出」 (3ページ目)

  • 松本直也●撮影 photo by Matsumoto Naoya

 選手だけのミーティングを、何度も開いた。
「もうJリーグも天皇杯も出ない」「そんなことをしたら永久追放になる」「じゃあ、どうしたらいい?」「J2からスタートできないのか?」

 いろんな意見が出たが、前に進まない。そんな中、サポーターがフロントと朝まで話し合いをした。それを見て、選手も行動を起こそうと、選手24人、スタッフ12人の全員で横浜駅前に立って、署名活動もやった。わずか15分だったけど、千人以上の署名が集まった。テレビでも連日報道され、大きな話題になった。でも、打開策は何も出て来なかった。


■2回目の天皇杯優勝。そして移籍──

 そんなとき、練習を終えて自宅に戻ってテレビを付けたら「合併調印」のニュースが流れていた。調印までいったら、普通はそこで終わり。でも、選手もスタッフも信じられなかった。いや、信じたくなかった。

 そして、最後の天皇杯をむかえた。負ければそこで終わり。チーム内で「若手を使ったほうがいい」という意見が出た。当時、ヤット(遠藤保仁/現ガンバ大阪)はプロ1年目で、彼も含めた若手が、合併した後に本当に移籍できるのかという危惧があったため、若手が試合に出れば、そのプレイを見たどこかのクラブが取ってくれるかもしれないと思った。

でも、若い連中は「僕らは試合に出られなくてもいい。フリューゲルスの誇りを持って最後まで戦ってほしい」と言ってくれた。その言葉でチームがひとつになったと思う。

 初戦の相手は大塚FC、次がヴァンフォーレ甲府。相手は負けて当たり前という感じでぶつかってくる。こっちは負けたら終わり。いろんな意味で全部、終わり。正直、戦いにくかったが、勝つことができた。そして、準々決勝、準決勝は当時"2強"といわれた磐田、鹿島と対戦。その強豪を破って、決勝へ進出した。

 決勝の相手は93年のJリーグ開幕戦で対戦した清水。いつもと同じ気持ちだった。勝ちたい、優勝したい。それだけだった。

 決勝は、先制されたが2‐1と勝ち越して逆転。試合の残り時間が少なくなってきたとき、「追いつかれたら延長になって、もう少しこのチームでプレイできるな......」そんな思いが頭をよぎった。

 試合が終わっても、これでフリューゲルスはなくなるんだという実感は、正直なかった。優勝した喜びしかなかった。実感したのは、名古屋に移籍した後だった。

「いつもなら横浜に集合するのに、俺、どこに行くんだろう」って思いながら、車でひとり、東名高速を名古屋まで走った。初めてのロッカールームで新しいユニフォームに着替えて、一緒に名古屋に移籍したナラ(楢崎正剛)と顔を見合わせ「似合わへんなぁ」と笑いあった。そのとき、フリューゲルスはなくなったんだな......と。

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