川崎憲次郎が語る関根潤三との1年 「笑顔でマウンドに来て、足を踏む...僕らは竹中直人と呼んでました(笑)」 (4ページ目)

  • 長谷川晶一●文 text by Hasegawa Shoichi

 川崎憲次郎へ──

 きみは性格的には強く、攻撃的なピッチャーだ。相手が強ければ強いほど、牙をむいて立ち向かっていくプレイヤーだ。それは、プロの選手としては、貴重な財産である。戦う前に、相手に勝つというつもりで勝負にのぞんでいく、その心を忘れないことだ。

 ヤクルトにはきみのようなタイプのピッチャーが少ない。内藤とともにヤクルトを背負っていく選手なのだから、きびしく自分を磨きあげ、練習にとりくんでいくことを期待する。

 この言葉を受けて、川崎が言う。

「関根さんが使ってくれなければ、僕はここまでの成績は残せていなかった。結果的に、後に僕は故障に苦しむことになりました。引退後、関根さんに会うと、『オレが壊したな、ゴメンな』って謝られました。でも、まったく関根さんのことを恨んではいないし、むしろ感謝しています。ある意味では、勝負を捨ててまで僕を使ってくれた。普通はできないですよ。それでも関根さんは僕を信じてくれたんです......」

 その言葉にさらに熱が帯びる。

「......関根さんはいつも次の世代、次の時代を見つめていたんです。僕は今でも、関根さんに感謝しています。もしも最初の監督が関根さんじゃなかったら、この世界に残っていなかったと思いますから」

 わずか1年の濃密なひととき。すでに50代を迎えている川崎にとって、「あの1年」はとても大きな意味を持っていたのである──。


関根潤三(せきね・じゅんぞう)/1927年3月15日、東京都生まれ。旧制日大三中から法政大へ進み、1年からエースとして79試合に登板。東京六大学リーグ歴代5位の通算41勝を挙げた。50年に近鉄に入り、投手として通算65勝をマーク。その後は打者に転向して通算1137安打を放った。65年に巨人へ移籍し、この年限りで引退。広島、巨人のコーチを経て、82〜84年に大洋(現DeNA)、87〜89年にヤクルトの監督を務めた。監督通算は780試合で331勝408敗41分。退任後は野球解説者として活躍し、穏やかな語り口が親しまれた。03年度に野球殿堂入りした。20年4月、93歳でこの世を去った。


川崎憲次郎(かわさき・けんじろう)/1971年1月8日、大分県生まれ。津久見高から88年ドラフト1位でヤクルトに入団。1年目から4勝を挙げ、2年目には12勝をマーク。プロ5年目の93年には14勝を挙げリーグ優勝に貢献。日本シリーズでもMVPに輝くなど、15年ぶり日本一の立役者となった。98年には最多勝、沢村賞のタイトルを受賞。01年にFAで中日に移籍するも、右肩痛のため3年間登板なし。移籍4年目は開幕投手に抜擢されるも成績を残せず、04年限りで現役を引退した。12、13年はロッテの投手コーチを務めた。現在は解説をはじめ、さまざまなジャンルで活躍している。

プロフィール

  • 長谷川晶一

    長谷川晶一 (はせがわ・しょういち)

    1970年5月13日生まれ。早稲田大学商学部卒。出版社勤務を経て2003年にノンフィクションライターとなり、主に野球を中心に活動を続ける。05年よりプロ野球12球団すべてのファンクラブに入会し続ける、世界でただひとりの「12球団ファンクラブ評論家(R)」。主な著書に、『詰むや、詰まざるや 森・西武 vs 野村・ヤクルトの2年間 完全版』(双葉文庫)、『基本は、真っ直ぐ──石川雅規42歳の肖像』(ベースボール・マガジン社)、『いつも、気づけば神宮に 東京ヤクルトスワローズ「9つの系譜」』(集英社)、『中野ブロードウェイ物語』(亜紀書房)、『名将前夜 生涯一監督・野村克也の原点』(KADOKAWA)ほか多数。近刊は『大阪偕星学園キムチ部 素人高校生が漬物で全国制覇した成長の記録』(KADOKAWA)。日本文藝家協会会員。

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