アフリカから甲子園。おかやま山陽・堤監督の奇想天外な野球ロマン人生 (5ページ目)

  • 谷上史朗●文 text by Tanigami SHiro
  • photo by Kyodo News

 2度目の帰国後は一転、福岡で会社を立ち上げたばかりの社長に見込まれ、ビジネスマンになった。日本に広く浸透する前のスポーツマネジメント業や各種イベントを手掛けていきたいという社長のビジョンに、「先々、野球の世界普及につながるかも......」と誘いを受けた。

 ここでやった主な仕事は、青汁で有名なアサヒ緑健のCMを手掛けたことだ。芸能人や飲食店店主などが登場し、闘病からの復活を物語った、あのCMだ。

「3本目までがまったくダメで、5本で打ち切りの話も出ていたのですが、4本目が大反響となり、商品も大ヒット。ドキュメント通販番組のはしりです」

 順調なビジネスマン生活を送りながらも、野球との関わりは続いていた。2000年からアジア野球連盟のインストラクターとして毎年2月にタイで行なわれる野球講習会に参加。すると、活動のなかで親交を深めた前田祐吉(元慶応大野球部監督で、2006年までアジア野球連盟の事務局長)から、今度は2004年に開催するアテネ五輪に向け、インドネシアチームのコーチ要請を受けた。

 現地での指導は限られたが、札幌で開催されたアテネ五輪予選を兼ねたアジア選手権に参加。一次予選で敗退したが、フィリピンからインドネシア史上初の勝利を挙げるなど、チームの力となった。

 一方、スポーツマネジメント業では、当時アマチュアだったゴルファーの諸見里しのぶと出会い、担当者として信頼関係を築いた。すると、ここで諸見里の出身校の縁で知り合ったおかやま山陽高校の当時の理事長から相談を受けるようになった。

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