近鉄「いてまえ魂」を受け継ぐ男、三田学園高監督・羽田耕一の挑戦

  • 菊地高弘●文・写真 text & photo by Kikuchi Takahiro

 63歳になったスラッガーは、今もなお「あの時」のことを後悔していた。

「なんで弱気になったのかなぁ......。野球をやっとって一番、自分自身に納得がいかんというか、悔やまれる打席だった。いまだにいろんな人からよう言われるけど、今でも思い出すと悔しい。『なんで自分のバッティングをせんかったのか?』とね」

三田学園の監督となって2度目の夏を迎える羽田耕一氏(写真右)三田学園の監督となって2度目の夏を迎える羽田耕一氏(写真右)

 1988年10月19日。川崎球場で行なわれた近鉄対ロッテのダブルヘッダーに日本中の視線が釘付けになった。近鉄が連勝すれば優勝が決まる大一番の第2試合。当時は試合時間が4時間を超えた場合、次のイニングに入らないという規定があり、近鉄にとって延長10回表が最後の攻撃になることは、誰の目にも明らかだった。

 一死一塁という場面で、打席には5番・羽田耕一(はだ・こういち)。35歳のベテランが放った打球は、二塁ベース付近に転がった。セカンドの西村徳文が打球をさばき、二塁ベースを踏んで一塁へ送球。ファーストの愛甲猛がボールを掴んだその瞬間、近鉄のリーグ優勝は事実上、消滅した。

「普段なら引っ張れるコースだった。それをおっつけにいったんや......。『ひとつアウトになってもいいかな?』『後ろにつなごかな?』そんな思いがあったのか、納得できない打席やった。プロで6000打席以上立って、後悔しているのはこれだけですよ」

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