68歳の打撃投手。ロッテ・池田重喜の裏方人生

  • 高森勇旗●文・写真 text&photo by Takamori Yuki

 透き通る青空、5月晴れ。爽やかな風が吹き抜ける住宅街に、乾いた音が響く。1年のうちで一番過ごしやすいと感じるこの季節にも関わらず、ロッテ浦和球場で練習する選手の額からは大粒の汗が流れていた。

 武蔵浦和駅で降り、新幹線の線路沿いをしばらく歩いた先、右手に見えてくる緑色のネット。ここが、ロッテ浦和球場(埼玉県)だ。この日は若手からベテランまで、一軍でのチャンスを待つ選手たちが、各々の課題に真剣な表情で取り組んでいた。

打撃投手だけでなく寮長として若手を教育する池田重喜氏打撃投手だけでなく寮長として若手を教育する池田重喜氏

 その中で、ニコニコとした表情でキャッチボールをする男がいた。顔には深いシワが刻み込まれ、日に焼けた肌が笑った時の歯の白さを際立たせている。

 池田重喜、68歳――この年齢にして、今も現役の打撃投手だ。1967年、大洋ホエールズ(現・横浜DeNAベイスターズ)でプロ野球選手となり、4年目にロッテオリオンズ(現・千葉ロッテマリーンズ)に移籍。以来、選手、コーチ、打撃投手としてチームを支え続けてきた。

 この日も二軍で調整中のG.G.佐藤、大松尚逸らの打撃投手を務め、107球を投じてボール球はわずか5球。ストライク率95.3%と驚異のコントロールを見せつけていた。いや、そもそも68歳で100球も投げられるものなのか。選手8年、裏方38年、合わせて46年。永きに渡り"プロ野球"という世界とともに生きてきた男の目には、この世界はどのように映ってきたのだろうか。招かれるまま、私はロッテの選手寮へと足を踏み入れた。

 1946年、池田は11人兄弟の末っ子として大分県臼杵市に生まれた。幼い頃から野球に傾倒し、中学卒業後は津久見高校に進学。2年時に甲子園の土を踏んだ。その後、社会人野球の日鉱佐賀関に進み、1年目の1965年11月、記念すべき第1回ドラフト会議で広島から15位で指名を受けた。当時のドラフトは今ほど完成されたものではなく、紙に自分の名前が書いてあるのを見て、初めて指名を受けたことを知ったという。だが池田は、チームに残留することを決意。そして1967年に都市対抗野球初出場を果たすと、その年の秋、大洋ホエールズから4位で指名を受け入団を決めた。

 入団後は中継ぎ投手として活躍し、3年間で103試合に登板。プロ野球の舞台でも実力を発揮した。だが、3年目のオフ、トレードでロッテオリオンズに移籍。1年目こそ31試合に登板するなど、大洋時代と変わらない活躍を果たすが、翌年は肩の故障によりわずか6試合の登板にとどまる。以後、肩痛に悩まされることになる(しかし、3年前の2011年、なんと肩痛が完治したそうだ。本人曰く「オフにずっと石を投げ続けていたら治った」らしい。恐るべき体である)。

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