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大瀬良大地、カープとの相思相愛を実らせた勝負パンツ (2ページ目)

  • 田尻耕太郎●文 text by Tajiri Kotaro
  • 繁昌良司●写真 photo by Hanjo Ryoji

 では、大瀬良とはどんな投手で、どのような野球人生を歩んできたのだろうか。

 1991年6月17日生まれ。小学4年で野球を始めたが、決して野球エリートというわけではなかった。6年生の時に右ヒジを痛めてしまう。中学でも軟式野球部に所属しダマしダマし続けていたが、2年生秋に痛みは限界に達した。医者は「関節ネズミ、いわゆる野球ヒジだが、安静にしていれば治るだろう」と言ったが、大瀬良は意外な行動に出た。

「右が使えないのなら左でやればいい。治ったらまた右に戻せばいいと思って」

 突如、左投げに転向したのである。夜、家に帰ると、とにかく投げ込んだ。鉛筆や箸も左手で持つなど、日常生活も左利きにした。とにかく努力をした。ただ、やはり類(たぐい)まれな野球センスがあったのだろう。1カ月もすると50mほどのキャッチボールは普通にできるようになった。試合にも一塁手として出場した。

「今でも80mくらいは左で投げられます。周りからは驚かれますね(笑)」

 結局、3年夏になっても痛みが取れなかったため手術を行ない、ようやく右投げに戻れたのは長崎日大高校入学後だった。

 大瀬良の名前が知れ渡るようになったのが、長崎県代表として甲子園に出場した高校3年の夏。だが、この年の長崎県大会の大本命はセンバツ優勝校の清峰高校で、エースは今村猛(現・広島)だった。準々決勝で両者はぶつかり、息詰まる投手戦の末、3-1で大瀬良に軍配が上がった。

 プロではその今村とチームメイトになる。大瀬良は「不思議な感覚」だと笑う。高校からすぐにプロ入りした今村に対し、大瀬良は「体も細かったし、足りないものだらけだったから」とプロ志望届を出さずに九州共立大学に進学した。「下級生の頃だけ」だったらしいが、寮の部屋の壁に今村の活躍を伝える新聞記事の切り抜きを貼りつけていた。

「それを見て、自分を奮い立たせていました」

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