【プロ野球】楽天・釜田佳直、投手人生のきっかけは斎藤佑樹 (2ページ目)

  • 谷上史朗●文 text by Tanigami Shiro
  • photo by Nikkan sports

 釜田は石川県の御幸中学の野球部で、1年の時はキャッチャーをしていた。夏休みのある日、テレビをつけると、駒大苫小牧のエース・田中と早稲田実業のエース・斎藤佑樹が投げ合う"あの決勝戦"が流れていた。延長15回、引き分けに終わった試合に魅せられた釜田は翌日、特急列車に飛び乗り大阪へ向かうと、甲子園で再試合を観戦した。この時、釜田の心を奪ったのは、田中ではなく熱狂の舞台で淡々と投げ込む斎藤のピッチングだった。そして石川に戻ると、監督にピッチャー転向を直訴。ここから、釜田の投手人生がスタートした。

「最初に惹かれたのは、斎藤投手だったんです。淡々とクールに投げている姿がカッコよくて。あの試合は本当に感動しましたし、この場所でプレイしたいと強く思いました」

 いざマウンドに上がると、豪速球がうなった。中学3年時に軟式で135キロを記録すると、金沢高校の1年春には143キロを記録。そんなスピードキングに転機が訪れたのが高校2年の秋だった。北信越大会を制して挑んだ神宮大会で自慢のストレートを東北高校打線に弾き返され、11安打を浴びて初戦敗退を喫した。この時、「大事なのは球速よりも球質。そのためにフォームも作り直さないといけない」と切り替わった。

 以来、プロの一流投手の連続写真を繰り返し見ながら、「これは!」と思うものがあれば、翌日の練習で取り入れた。股関節の柔軟性もアップさせながら、上体中心から下半身主導のフォームへ修正していくと、翌春、甲子園のマウンドには別人の釜田がいた。

 初戦の加古川北戦での釜田は、上体の力みは消え、ストレートの伸び、スライダーもキレも格段にアップ。ただ、5回二死までパーフェクトの快投を演じたが、試合は0対4で敗れた。ペース配分や配球も含め、大きな課題をまた持ち帰った。

 のちにこの一戦を「勝てるピッチャーになっていくための原点」と語ったが、加古川北のエース・井上真伊人(現・京都産業大)の打者をじっくり観察して投げ分ける投球を見習い、また井上の武器であるカットボールもここで覚えた。本人も「負け試合が自分を大きくしてくれた」と話していたが、経験を力に変えられることが、釜田の最大の長所だ。

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